高橋 希代子(タカハシ キヨコ)

生年月日:1967/02/23
居住地:愛知県
プロフィール: ★出身
①京都府出身
②大阪体育大学陸上競技長距離ブロック出身

★トライアスロン歴
③1987年 天橋立トライアスロン大会デビュー(京都)

④1989年 第1回世界選手権日本代表(フランス・アビニヨン)

⑤1989年~6年連続世界選手権日本代表
 1992年第1回アジア選手権大会(日本)優勝
 1993・95年もアジアの頂点に立つ
⑥1992年worldCup北京5位入賞
  
⑦1994年 グッドウイルゲームス(ロシア)にアジア人トライアスリートとして初めて出場。

⑧プロ転向
⑨内視鏡手術
⑩トライアスロンステーション設立

★趣味
自転車・スキー・料理・フラメンコ・読書・ヨガ・ピラティス・テニス


★指導PR
≪プロのコーチです≫
私自身、指導者の居ない時代にビギナーから試行錯誤してプロになりました。できない人の気持ちが分かる指導者です。
プレイングコーチではなくプロのコーチですから、自分が試行錯誤して得たものを惜しみなく提供するのが私流。
仕事を一生懸命してその対価をありがたくいただいています。

≪こういうことが教えてほしかった!≫
ビギナーにも分かりやすい表現で上手くなるコツをつかめる指導を心掛けています。やみくもに練習をすすめたり、難しい理論的なことは・・・苦手です(笑)。これが予想外に好評。水泳・自転車の専門家の指導者がみたら規格外の指導だと思いますが、要は相手が理解しナットクしてくれることが大事なんです。一度受講にいらしてくださいね。

≪継続は力なりをモットーにしています≫
私は魔法使いではありません。短期間で未経験者をトライアスリートにすることはできません。ゆっくりじっくり土台を大きく育てて1年でも長くレースに出場できる強い心と身体を作る指導をしています。


≪オリンピックへ!≫
残念ながらオリンピックが未だなかった時代を走ってきたので、夢は選手に託します。甘い世界ではないので上を目指す選手には厳しく指導します。信念が貫けない選手は要りません。現在強い意志を貫ける選手を指導中。逆に自分も学ばされることが多い。
私は、未知の世界でも飛び込む勇気を選手に与えることができる、
トップを走る厳しさや、心の弱さを自分の経験からサポートできる、
スポーツ心理学を学んできたことも参考にしながら、走れなくなったときや落ち込んだ時も自分の経験からサポートできるのでオリンピアになりたい選手は門をたたいて下さい。


≪人間として≫
選手時代、自分はどれくらいの人に感謝してきただろうか。
きっと全く足りてなかったと思う。ダメ選手だったと思うが今更悔いても遅い。しかし選手にはそんな思いをさせたくないので、好きなことに専念できるありがたさを常々言い聞かせる指導をしています。
負けない強い気持ち・意志を貫く強さは選手として必要不可欠だが、時としてワガママに映る。選手のワガママを指導者が受け止めて外には出さない防波堤になることも私の仕事。大事な選手が自分を見失わないように、導きたいと考えています。









その他 : プロフィールの詳細です。


トライアスロンを始めた当時、地元関西の京都協会・大阪協会・滋賀協会の皆さまに大変お世話になりました。


在籍当時は大学女子駅伝常勝の強豪校だった。
教員になるのが夢だったので、教員免許を取得できて日本一長距離が強い大体大を選んだ。ちなみに出身地京都も駅伝日本一の土地柄。走る環境は抜群でした。というわけでランが得意です。


泳ぎ切れるか、完走できるか、不安感と未知の世界に挑むワクワク感そしてフィニッシュ後の達成感は今でも鮮明に覚えています。この時の気持ちが忘れられません。トライアスロンの伝道師になろうと決めた理由です。当時は20歳以上でないとトライアスロンに参加できない時代でしたので、20歳だった私は最年少。しかも女子ということでいきなりインタビューの嵐でTVデビューも果たしました。今の時代だと学生チャンピオンだったか?


念願の教壇に立つことができ、社会人人生が始まった年。陸上部で記録に縛られていたので、旅行がてら順位も気にせず楽しく参加できるトライアスロンにのめり込んでいった。
何も知らずに出た第1回世界選手権選考2レースで、たまたま上位入り。自分は無名一般選手なので絶対選ばれるわけがないと思った日本代表にそのまま選ばれてしまった。パスポートも持っていなかった。人生で一番ヤバいと思った瞬間だった。
この代表入りがなかったら自分はそのまま教員をしながら楽しくトライアスロンをやっていたはずです。

このあと私の中で日本代表の自覚が芽生えた。デビューから2年、遊び半分でほとんど練習してなかったが、世界大会で初めて一緒に走った外国人達をみて、私もきちんと練習をすれば勝てる、と思った。いい意味での勘違い野郎。
体力・体型ではかなわないので技術で勝つしかない。そこから私のトライアスロントレーニングの模索が始まりまった。
その結果が以降の戦歴。


国内大会は優勝または日本人1位を数年間独走
黒さも日本一。


人生初めての賞金ゲット。


94年アジア選手権は同じ日に韓国で開催され、悩んだ末こちらを選択。国内・アジアを制覇した自分の気持ちは、世界へ向く一方。


WorldCupシリーズにランキング制度も整ったという情報が入るとますます気持は世界へ。バブル時代だったこともあり私の成績をみた企業がスポンサードすると声をかけて下さる。今しかできないことをしようと教員を退職しプロ選手に転向。1993年の春だった。

ショート専門だが、根性試しに出場した宮古島大会では4位入賞。
W.C.Spain9位 ・W.C.Mauii5位などなど・・・・賞金を稼ぐプロとして生計を立てることができた。インターネットも無く、JTUもまだ設立したばかりで機能してない時代だった。しかたなくITU会長に直接電話をかけて要綱をFAXしてもらうなど、たった一人でWC開催地へ行ってレースに出場していた。冬はゴールドコースト・夏はボウルダーで練習。平凡な私には全く想定外の生活となりました。



1995年春、脚の感覚に違和感を覚え、この1年間は納得のいく練習やレースができなかった。思い切って内視鏡手術を受けたが症状は改善せずプロ選手という立場上悩みを打ち明ける場所も手段もなく精神的に辛い時期だった。

プロ選手として終止符をうったのが1998年。
1年間は旅行に行ったりスキーを再開したり、のんびり過ごす。
教員に戻る道も考えたが、教員は私でなくてもできる仕事。同じ指導畑でも、自分の人生を変えてくれたトライアスロンの指導を自分の天職としようと決意。


2000年選手育成・指導のトライアスロンスクールと普及のための活動を併せ持つ、トライアスロンステーションを設立。

縁もゆかりもない土地で、全て直談判により好きな道を切り開けたのは、選手時代に身につけた怖いもの知らずのチャレンジ精神のお陰だと思う。トライアスロンとの出会いに感謝。この感動を広めていきたい。